議論について

自分と違う価値観の人。

意見をぶつけ合わせるということ。

そこに感情を織り交ぜないということ。(最低限のマナーは守るということ)

 

私は私の意見を表現する。表現した方が良いことを知っているから。

私の意見というのは、当然私という人間の立場から見た意見ということだ。私という存在は世界に私しかいない。ということは、私の意見というのは、世界に一つしかない超貴重な意見ということだ。そんな貴重な意見を表現しないなんて、なんと勿体ないことだろう。

 

私と同様、世界の全ての人の意見は、世界に一つしかない超貴重な意見ということだ。

そんな貴重な意見を聴ける機会があるなんで、私はなんと幸せなのだろうか。大いに耳を傾けるべきである。

 

人の意見を聴かない人がいる。なんと勿体ないことだろう。自分の意見に固執することは、今後の広がりを感じられない。しかし『私は私の意見に固執する』という意見も、その人の貴重な意見だということも事実である。

 

入れる情報は選別できる。自分に入れたくない情報や意見は入れなくていい。

自分にとって心地よい情報だけを自分の中に入れれば良い。

偏った情報の中ばかりに居たら、その濃度は濃くなり、腐り、淀むだろう。

時には水を入れ替えて、新鮮な情報を入れてみるのも悪くない。

新鮮な情報とは、自分の価値観に合わない情報のことだ。

せっかく作り上げた自分が、また振り出しに戻るような感覚。

それと同時に、行きづまっていた将来への道がまた開くような感覚。

人生はいつでも何度でもやり直せると言われている。

 

要するに、議論はすべきである。

商売と交渉、そして思いやり。

商売は甘くない。

当社が顧客の関係業者からはできるだけぶん取れ!

当社が付き合いをやめて困るのはそっちの方なのだから。

当社がお願いをしている関係業者からはできるだけ値切れ!

貰えるものは貰って当社の利益をできるだけ大きくしろ。

表面上は失礼のないような態度で、腹の底は自分のことだけを考えるというこの交渉のテクニック。

 

商売とは、双方がWIN-WINの関係でないと成り立たない。

どんな立場の関係業者であろうと、相手を思いやる心が必要である。

相手の貴重な時間を奪わないようにする。やりとりはできるだけわかりやすく簡潔に表現する。適切な媒体(電話、メール、zoom、直接会う など)を使用する。

 

しかし、ブラックな交渉なしでは結局搾取されるのは当社である。

相手になめられてはいけない。

 

こういったことは、私が仕事が面白くない理由の一つである。

 

心配事

心配事の9割は実際には起こらない。

お金の心配。老後。安月給。節約は得意だが収入が少ないので、お金はそれほど貯まらない。

 

人生を豊かにするのは「経験」である。お金の価値は歳を取るごとに下がっていく。いい思い出は若いうちに作っておいた方がいい。なぜなら、人生の始めの方に作った思い出の方が、それを思い返しせる機会が圧倒的に多いから。どんな経験も過ぎればいい思い出になる。その時は苦しくても、それが過ぎ去った後に思い返してみたら、それは楽しかった思い出となるのだ。

 

チャレンジしない人は失敗しない。失敗が少ない人とは、=チャレンジが少ない人である。「無難」と「有難」。難が無いのは良いことだ。平和で穏やかな日々。難が有るということはさぞかし苦労も心労も多いだろう。それは、成長する機会も多いということ。そして、たくさんの難があった人生は、最終的には経験豊富な豊かな人生であったと言えるのかもしれない。

 

心配はしようと思えばいくらでもできる。人間(生き物)は「生き永らえよう」という本能が働く限り、「得る喜び」より「失う恐怖」を多く見積もるようにできている。リスクを回避しようとするのは生き物として当然なのだ。

リスクを恐れて何にもチャレンジしないことは、ある意味生き物としては自然だ。しかしそんな人生はきっと「豊かな人生」ではないのだ。人生を味わい尽くそうと思ったら、やはりチャレンジは必須となるようである。

 

どんな物質も幻想である。この世に確かに存在している物質は何一つない。全ては「そう見えている」だけ。唯一あるとしたらそれは、今こんなことを考えている「私」という存在は確かにここに存在しているということである。(誰かの受け売り…。)

 

終わってしまえば全て夢。そう考えたら、恐れることなど何一つないのだ。どう生きるかは完全に私の自由なのだ。私がそう選択すれば、そのような世界が私に見える。私が違う選択をすれば、また別のそのような世界が私に見えるというだけのことだ。

 

ドラゴンクエスト」というゲームがある。フィールド上の主人公を、コントローラーを持った現実の私が意のままに操るゲームだ。ゲーム上の「私」を「私」が操っている状態。どこへ行くかは自由。「ここへ行ってみよう」「こう話しかけてみよう」と選択すれば、用意されたフィールド全体が私用に変化するのだ。「私」がその世界の中心であり、「私」に合わせて全てが動くのだ。現実の世界もそうであるといえる。

 

世界は常に変化している。その変化も実は「私」が起こしている。私の視点次第で世界は変わる。私の行動次第で世界は変わる。私とは無関係に起こったように見える出来事も、実は私が起こした変化。(というか、私がその変化に着目したというべきか…。)私が前を向けば世界は山であり、私が後ろを振り向けば世界は海。要するに、全ては私次第。

 

テーマである「心配事」。

全てが私の自由であるのなら、当然それはあるはずがない。私が何を思い、何を想像し、何を選択し、どう行動するか。全てはそれ次第であるのだから。

『欲』『体験』『バランス』

欲を満たす。

欲しいものを手に入れる。

やりたいことをやる。

 

生きることとは『体験すること』だ。存分に人生を味わってから死ぬ。やりたいこともやらないまま死んでいくのは人生が勿体ない。『欲』こそが生きるための原動力である。

 

私利私欲を満たす。『欲』は、満たしても満たしても満たされることはない。達成しても、また次の『欲』が現れる。上を見ればキリがない。欲しいものはどんどん増えていく。

 

幸せとは『気付き』である。今ある幸せにどれだけ気付けるか。欲を満たし続けて、まだ見ぬ幸せだけを見て、今ある幸せを見ることをしなければ、いつまでも枯渇し、いつもまでも満たされることはないだろう。

 

遠い目標に向かって日々を生きる。その為の努力を積み重ねる。達成したあかつきには、今まで努力の分も含めた大きな幸せを味わうことができるだろう。その為の過程(努力)だって幸せだ。目標を達成した時のことを想像するだけで幸せなのだから。

 

目標を設定せず、日々の小さな喜びを味わいながら平穏に生きる。それも幸せである。「夢を持て!」と人は言うが、今が最高なのであればこれ以上何を望めというのだろうか。

 

夢(目標)とは『欲』である。

ああなりたい!あれが欲しい!あれを達成したい!

欲を持つことに『良い』も『悪い』もない。

 

✔欲

✔気付き

✔夢(目標)

✔努力(過程)

 

結局どれも幸せだということになる。

バランスとは、何か一つでなければならないという拘りを持たないこと。

同時に『拘らないでいる』という拘りを持たないことでもある。

拘っても良い。拘らなくても良い。

時には目標を持ち、その達成の為の努力をし、時にはそれを手放し、今ある幸せに気付くということ。そのバランスなのである。

 

日々変化する自分を味わうということ。

疲れたり、癒されたり、興奮したり、求めたり、力んだり、緩んだり、サボったり、逃げたり、恐れたり、怒ったり、笑ったり、愛したり、愛されたり。

そんな数々の『体験』こそが、人生を芳醇にする。

 

自分の中から湧き上がる『感情』を味わうということ。感情を湧き上がらせてくれる日々の出来事に感謝するということ。

 

感情に振り回されないこと。感情を客観的に楽しむ。ある意味自分を自分として見ないこと。自分をもう一人の他者として見る。自分のアバターである自分に様々な体験をさせ、経験値を上げ、日々様々な感情を抱く自分が愛おしくて。そんな自分を好きになって。