心配事

心配事の9割は実際には起こらない。

お金の心配。老後。安月給。節約は得意だが収入が少ないので、お金はそれほど貯まらない。

 

人生を豊かにするのは「経験」である。お金の価値は歳を取るごとに下がっていく。いい思い出は若いうちに作っておいた方がいい。なぜなら、人生の始めの方に作った思い出の方が、それを思い返しせる機会が圧倒的に多いから。どんな経験も過ぎればいい思い出になる。その時は苦しくても、それが過ぎ去った後に思い返してみたら、それは楽しかった思い出となるのだ。

 

チャレンジしない人は失敗しない。失敗が少ない人とは、=チャレンジが少ない人である。「無難」と「有難」。難が無いのは良いことだ。平和で穏やかな日々。難が有るということはさぞかし苦労も心労も多いだろう。それは、成長する機会も多いということ。そして、たくさんの難があった人生は、最終的には経験豊富な豊かな人生であったと言えるのかもしれない。

 

心配はしようと思えばいくらでもできる。人間(生き物)は「生き永らえよう」という本能が働く限り、「得る喜び」より「失う恐怖」を多く見積もるようにできている。リスクを回避しようとするのは生き物として当然なのだ。

リスクを恐れて何にもチャレンジしないことは、ある意味生き物としては自然だ。しかしそんな人生はきっと「豊かな人生」ではないのだ。人生を味わい尽くそうと思ったら、やはりチャレンジは必須となるようである。

 

どんな物質も幻想である。この世に確かに存在している物質は何一つない。全ては「そう見えている」だけ。唯一あるとしたらそれは、今こんなことを考えている「私」という存在は確かにここに存在しているということである。(誰かの受け売り…。)

 

終わってしまえば全て夢。そう考えたら、恐れることなど何一つないのだ。どう生きるかは完全に私の自由なのだ。私がそう選択すれば、そのような世界が私に見える。私が違う選択をすれば、また別のそのような世界が私に見えるというだけのことだ。

 

ドラゴンクエスト」というゲームがある。フィールド上の主人公を、コントローラーを持った現実の私が意のままに操るゲームだ。ゲーム上の「私」を「私」が操っている状態。どこへ行くかは自由。「ここへ行ってみよう」「こう話しかけてみよう」と選択すれば、用意されたフィールド全体が私用に変化するのだ。「私」がその世界の中心であり、「私」に合わせて全てが動くのだ。現実の世界もそうであるといえる。

 

世界は常に変化している。その変化も実は「私」が起こしている。私の視点次第で世界は変わる。私の行動次第で世界は変わる。私とは無関係に起こったように見える出来事も、実は私が起こした変化。(というか、私がその変化に着目したというべきか…。)私が前を向けば世界は山であり、私が後ろを振り向けば世界は海。要するに、全ては私次第。

 

テーマである「心配事」。

全てが私の自由であるのなら、当然それはあるはずがない。私が何を思い、何を想像し、何を選択し、どう行動するか。全てはそれ次第であるのだから。